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地球と遊ぼう、ハイジの丘協会 ワインとお茶の評価にみる、日本と西洋の味覚文化 

ワインとお茶の評価にみる、日本と西洋の味覚文化  

テイスティングとは、目の前にある食材が何かを、5感を通して知ろうとする行為だ。「何か」とは、ある人にとっては商材であり、農産物であり、品種名や栽培方法、ヴィンテージであり、料理に使う材料の一部であり、経済的目的を達成するための手段であり、技術の内容は人それぞれだ。

最近のマイブーム。それは味覚講座。
1年間、食環境ジャーナリストの金丸弘美先生との講習で、豆腐や米、塩、カボスなどを表現したのだが、子どもの表現を引き出すには、自分に表現力がなくては、広がらないことが分かってきた。「わらのような味」を、あなたは何を食べた時に思い浮かぶだろうか。「初恋のような甘酸っぱい味」を、どんな香りをかいだときに思い起こすだろうか。
しかし、日本茶インストラクターに話を聞くと、お茶の品評会では、まず{葉いたみ臭 ・湿り臭 ・変質臭 ・煙臭. ・油臭 ・移り臭 ・異臭}などの欠点探しから始める、というのだ。ワインのような”プラス”の表現ではないらしい。

ワイン・エキスパートを目指す会社の先輩が貸してくれた「ワインナート」35号の特集にティスティング術が載っていた。まず、ワインとは何か。ワイン評論家の田中克幸氏は、興味ある、趣味の対象としての定義を次のように書いている。

それは、

1.文化、歴史などの人間諸力の結節点としてのワイン
2.ライフスタイル表現の構成要素としてのワイン
3.至高性へのメディア、いわゆる真善美を経験する契機としてのワイン
であると。

そしてこのように続けている。

ここでのワインは、真善美といった抽象的な価値を、感性的に把握可能な何らかの形象へと投影する媒体である。ワイン自体が真善美の実体化なのではない。これは、神と、神をテーマとした絵画の関係にも置き換えられるだろう。いわばテイスティングとは、ワインを通して神を見ようとすることであり、評点とは、自分の感性が把握した形象が、自分が知る人為の可能性の範囲内で、どれだけ自分の考える神に近づいた気にさせてくれたか、の程度である。

ワインにとっての目、耳、口、鼻は、凝縮度、余韻、構造、調和、品位であり、色・香り・味わうという使用感覚器官別の分類の向こうに存在する。

では、食べ物の品位とは何か。

人為を尽くした上で透明な、あるべきものがあるべき場所にある、無為自然の多々妻井であり、その静謐な気配のうちから伝わるスピリチュアルな自然のエネルギーの輝き。

ワインを趣味とするならば、ワインを以て自分を表明するということだ。ワインをもって自分を表明するとは、目の前のワインの中に自分はいかなる真善美を見いだそうとするかを明らかにするということだ。真善美は語りかけないが、それを求める人の心に福音をもたらす。テイスティングとは、それを求めるという自らの態度表明であり、その自覚プロセスであり、その結果として開かれる高次のコミュニケーションへの一歩なのである。




新茶の美しい季節だ。一面の茶畑に、新緑の生命力が太陽いっぱいに芽吹いている。明日だろうか、それとも2,3日先だろうか、5枚の葉っぱが出そろうのは。新しい一杯のお茶を差し出されたとき、是非あの一枚を思い出して欲しい。まだ、茶畑に出かけたことのない人に。是非、触れてみて欲しい。生産者の思いにも。
茶畑を想像できるようになった時、きっとあなたが入れる一杯のお茶が、汲まれた人の心に一滴、ほのかなまろみや、温かさをもたらすだろう。




♪今日のお気に入り音楽
Bobby McFerrin - Ave Maria(you tube)

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